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市議選が終わって、もう数週間がたつ。この間、ずっと何をどう言ったらいいのか、モヤモヤした気分が抜けないまま、時間だけが過ぎて行ったような気分にとらわれている。
早いもので、私たち夫婦が松戸市から横浜に引っ越してもう7年が過ぎた。あと数年で横浜での仕事が終わり、また松戸に戻らなければいけない。自宅が新松戸にあるので。この横浜と松戸では、住民のみならず、自治体の役人たちの意識にもかなりの差がある、と実感している。ここを離れて、あの松戸市に戻らなければならない憂鬱。ただし、仕事はといえば、苦労と悪戦苦闘の連続だったが(今もまさにそのまっただ中だ)、それはまあ、仕方がない。
吉野さんが落選した市議選の時の諸々のことが、今でも忘れられない。今回の佐藤さんの落選がそれとオーバーラップして、気分は最悪だ。
あの時、私はかなり怒りにとらわれて、「吉野さんを落選させるような松戸市民にはほとほと愛想が尽きた」というような意味のことをこの掲示板に投書した。何と書いたかは、正確には覚えていないが、激情に駆られてとは言え、正直に言えば、実の所、これは私の今でも変わらない本音だ。
その時、あちこちから私の発言に対して批判を頂いてしまった。「選挙民の判断に従うのが民主主義の本分だ」とか、「なぜ落ちたかを振り返って検討し、何がいけなかったのか反省すべき」とか言うものだ。
それはそれでもっともな話だ。日本は議会制民主主義の国だし、それが多方面から色々考えても、今人類がとりうるベストの政治形態だからだ。効率が悪いだの、愚民政治に陥り安いだの、色々な批判はあるが、強力なリーダーに全ての権力を握らせてしまうような愚かな政治形態よりははるかにマシだからだ。
理想に燃えて社会主義建設をめざす勢力が政治権力を握っても、結局の所は、人間が本源的に持っている欲望が何よりも優先してしまい(時には本人すら自覚のないままに)、それを実現するために自分の手元に集めた強大な権力を縦横に振り回すことになってしまう。
その典型的な例がスターリンであり、毛沢東であり、今まさに近隣諸国に脅威を与え続けている金正日だ。結局人間とは、自分の手に強大な権力を握ってしまうと、己のやりたいようにやるという状態に陥いるのが、生まれ持った性のような生き物なのだ。
またあるいは、もっと根元的にというか、自分だけは人より裕福な生活をしたいとか、他者よりもずっと優越した地位や権限が欲しいと思うような欲望を抑えることができないというやっかいな面も持っている。他者に優越したいという強烈な欲望。こんな人間に権力を握らせてしまったら、もうどうすることもできない。
潜在的には、どんな人間にも多かれ少なかれ、こういう意識は必ずある。普段の我々の生活では、それが顕在化しないだけの話だ。この民主主義社会では、そんな欲望を顕在化させるチャンスなど(経済的格差を除いては)、ほとんどないからだ。
こうして、とどのつまりは個人独裁という恐怖政治になってしまった例を、現代史の中で飽きるほど見せつけられてきたわけだから、議会制民主主義がいかに効率が悪くても、そうそうこの制度を捨てるわけにはいかないことは、既に自明の理というべきものだろう。
しかしながら、この議会制民主主義を本来的に機能させていくためには、選挙民が、どうすればよりよい社会を作ることができるのか、という自覚が必要なのはこれも自明の前提なのではなかったのか。それなしには、議会制民主主義という制度は、まさにイコール愚民政治に他ならなくなってしまう。
独断で言いきってしまうが、少なくとも、過去50年以上に渡る自民党政権の歴史は、まさにその愚民政治のオンパレードと言っていいものだったと私は考えている。
特に、私が未だに脳裏に鮮明に記憶している、あの国民的英雄に近い状態にまで持ち上げられた田中角栄という、「越後の出稼ぎ」男が日本中にまき散らした害毒は、彼がいかなる業績を上げていたとしても(確かにやたら人気はあったが、彼はそれほど大したことをやったのか。ロッキードから賄賂を貰ってバレたのが最大の功績じゃないのかと私はひそかに思っている)、絶対に容認できるものではない。
彼は、自分で「イチゴの出稼ぎ」などと言いつつ、新潟県にのみ集中的に公共事業を誘致して、最盛期には、日本でも首都圏くらいにしか整備されていなかった道路整備(もちろん道路だけにとどまらない。あらゆる公共事業を新潟県に投入した)を巨額の金をかけて実行し、新潟県を出て他の県に入ったとたん、道路が狭くでこぼこになってしまうというような、信じられないような格差を公共事業でやってのけていたにもかかわらず、国民はそれを何の批判もなく受け入れていたのだ。
私は自分の故郷(福島県会津地方)に帰る度に、田舎に残った友人から、悔しそうに、「福島県からも、角栄くらいの有力な議員を出さないと、福島県はどんどん取り残されてしまう」等という愚痴を何度も聞かされていた。おそらく、新潟県を取り巻いている各県の住民たちも、この友人のような思いを味わい続けていたのだろうと思う。
しかし、である。こんな、一人の有力な政治家が出たと言うだけで、その政治家の地元だけは、いい目を見ることができるというような政治がまかり通る社会が、果たして民主主義社会と言えるのか。
自民党は、その後もずっと、こういう発想の政治の牙城であり続けた。
国鉄の問題もそうだ。国鉄民営化の直前、国鉄の赤字は巨額に登った。その一番大きな原因は、代々の政治家たちが、自分の地元の選挙民の歓心を買うために(中には己の懐になにがしかのキックバックを貰うことを意図して)、元々採算など度外視して、やみくもに国鉄の路線を強引に誘致してきたということに他ならない。
その赤字路線が、民営化に際して、次々に切り捨てられ、切り捨てられた路線は第三セクターとして生き残りを模索してきたが、現在まで、その三セクで生き残っているのが果たして何割あるのか。既に大部分はつぶれて消え去って、残っているのは、ほんの一握りに過ぎない。元々利益など見込めないローカル線が生き残れるわけなどないのだ。そういうローカル線を自民党の政治家たちは、次々と作り続けてきた(一部には、野党の政治家もそんなことに血道を上げていた)。
《長すぎたので下に続く》
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